2013-11-01
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コピーアンドペーストはもはや引用ではない。消費である。
■ 再読はもはや消費ではない。遊びである。
http://q-q-q.tumblr.com/post/64854093470
再読はもはや消費ではない。遊びである。
http://q-q-q.tumblr.com/post/64853963711
再読は、物語が一度消費(《むさぼり読み》)されたら、他の物語に移り、他の本を買うことができるよう、その物語を《投げ捨てる》ことを勧める現代社会の商業的イデオロギー的慣習に反した操作であり、それはある周辺のカテゴリーに属する読者たち(子供、老人、教師)にしか許されていないが、ここでは、再読はただちに提起されている。なぜなら、それだけがテキストを繰返しから救うからであり(再読を軽んずる人は、到る所で、同じ物語を読まざるを得ない)、テキストをその多様性と複数性の中で増殖させるからである。
再読は、最初の読書が基本的で、素朴で、現象的な読書であって、後はただ単に《説明》したり、知的な解釈を加えたりすればよいだろうというような思い上がり(あたかも読書にはじめがあるかのような、すべてがすでに読まれていなかったかのような。最初の読書など存在しないのだ。たとえテキストが、説得的というより見世物的な技巧であるサスペンスといういくつかの操作子 opérateur によって、そうした幻想をわれわれに与えようと努力するとしてもである)を認めない。
ロラン・バルト 「S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析」
「IX 読書はいくつあるか」
沢崎浩平訳 みすず書房 1973年
■ 書いているひとが、偉くなったり結婚したりでインターネットに割ける時間が減ったり、承認欲求が満たされて文章を書かなくて良くなったり、人間関係構築が一段落したので今は Facebook みたいな場所に移ったりしているからなのか、よくわからない。
http://2013.8-p.info/japanese/07-28-untitled.html#section-3
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プログラマの中のブログブームみたいなものがあって、書くことについては、自分はまだその影響下にあるように思う。書くのは良いことでやるべきだと思っている。読むことについては、大量に読むブームは自分の中で終わってしまっていて、Feedly では27個しか購読していない。
昔はいろいろ書いていて、いまはあんまり書かなくなった人も結構みかける。これは時代的にブームが終わったからなのか、書いているひとが、偉くなったり結婚したりでインターネットに割ける時間が減ったり、承認欲求が満たされて文章を書かなくて良くなったり、人間関係構築が一段落したので今は Facebook みたいな場所に移ったりしているからなのか、よくわからない。
はてなダイアリーのキーワードから特定の技術について書いている人をさがして、それがブックマークにのって、ブックマークのフォロー関係から広まっていく、みたいなことってまだありえるんだろうか。それでいうと、Qiita はそういうことが起こりそうで良いなと思う。
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http://to.tumblr.com/post/65323537421
なんで消えずに残ってるのか、消すのが面倒なのか、そういうものだと思いこんでるのか、残るのがデフォルトで消すのが能動的なアクション、消えるのがデフォルトで残すのが能動的なアクション(自己愛)、自分のためか他人のためか、何のために書いてるのか