2013-10-31

14:31

やっぱりマクルーハン読まないと。

マクルーハンの『グーテンベルグの銀河系」という難解な著作を、半年間、ほかには何もしないで読み込んだ 14:05

http://windofweef.web.fc2.com/library/preinform/5/50/malti_madiamaind03.html

アラン ケイの概念はコンピューターの未来に大きな影響を与えたが、それは既存のコンピューター技術から発想するのではなく、本に範をとったことに彼の慧眼があった。ばらばらに開発されていた要素技術を集積して、コンピューター技術を元に統合的なイメージでァラン・ケイが提案できたのも、本に範をとったメディアという視点を明確に持っていたからに他ならない。アラン・ケイは言う。「ダイナブックを設計する目的の一つは、あらゆる点で紙よりも劣らないようにすることである」

ハワード・ラインゴールドは『Virtual Reality』で次のように書いている。「ケイは(コンピューターは道具というよりもむしろメディアであるという啓示を彼に与えた) マーシャル マクルーハンに影響を受けている」。また、ケイ自身こういう発言を残している。「私のメディアに関する考えた方は、マクルーハンの『グーテンベルグの銀河系」という難解な著作を、半年間、ほかには何もしないで読み込んだときの経験がベースになっている」マクルーハンは本を次のように批判した。印刷された文字は、論理を積み上げ、感覚をおしやることによって、人間同士を孤立させ、ナショナリズム帝国主義を導き出し、地球規模での戦争をもたらす。一方で、急速に普及していたテレビを前提に、新しい視覚文化は、感覚を動員し、失われた共同体を復活し、触れ合いを回復すると賞賛した。マクルーハンの信奉者であるケイが、マクルーハンが批判した印刷物である本をメタファーに使い、自らが構想したメディア・テクノロジーに「ダイナブック」という名称をつけたことは矛盾しているようにも見える。しかし、ケイはマクルーハンが批判した本に代わるものを開発することで、マクルーハンの思想を実践しようとしたのである。マクルーハンが批判する直線的なものではなく、ダイナミックに変化する非直線的な表現が可能なメディア テクノロジーを開発する。ある意味では、文字をマクルーハンの批判に耐えることのできるメディア・テクノロジーを構想したともいえる。

それが印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、どういう状態なのだろうか。 14:27

http://d.hatena.ne.jp/takumau/20060723/1153679421

マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを"コンピュータ"と呼ぶことに違和感を覚え、"メディア"と呼ぶようになる。そして今までのどのメディアとも違うのは、それがメディアを作るメディア、メタ・メディアであるという洞察に至る。

パーソナルコンピュータが「メディアをつくるメディア」すなわちメタ・メディアだとして、それが印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、どういう状態なのだろうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは"コンピュータ・リテラシー"という言葉を作り、識字率を100%に上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言した。

メッセージを受けとることは,メッセージを復元することである 13:41

http://touch-touch-touch.blogspot.jp/2010/02/blog-post_08.html

ケイは,マーシャル・マクルーハンの『メディア論』を読み,コミュニケーション・メディアで最も重要な点は「メッセージを受けとることは,メッセージを復元することである10」と理解する.そして,メッセージの背後にあるものを「引き出す」には,ヒトは自分が使用するメディアを内在化しなくてはならないと,ケイは考えるようになる11.

彼が「メディアはメッセージである」という場合、メディアを利用するには自分自身がメディアにならなければならないということを意味している。 13:39

http://modelessdesign.com/modelessandmodal/2009/12/03/message/

アランケイは、マクルーハンの「メディア論」について次のように言っています。

彼が「メディアはメッセージである」という場合、メディアを利用するには自分自身がメディアにならなければならないということを意味している。これはかなり恐ろしいことである。人間は道具を作った動物ではあるが、道具の使い方を学ぶことが私たち自身を変える、という点に道具と人間の本質があることを意味している。

人の歴史は道具の歴史でもあります。人は道具を使うことで物事の捉え方やコミュニケーションの意味を変容させてきました。しかしそのことにあえて気づかされるには、道具がバーチャルなイリュージョンを創り出し、抽象概念を直接操作するという、現代のコンピュータメディアの登場が必要だったということでしょうか。

Appleガイドラインから消された一節が、この発見に根ざしたものであることは明らかでしょう。

コンピュータの設計と人間の活動は互いに影響し合いながら発展するものだと考える必要があります。

ただ流通していくものこそが画像なのである 14:00

http://touch-touch-touch.blogspot.jp/2013/08/there-is-no-more-poor-image.html

2007年から6年たった今,「貧しい画像」はもうない.低解像度の画像はネットに出回り,それを主に見てきた若い世代にとっては,「貧しい画像」それ自体がリアルなのである.リアルに高解像度のオリジナルも低解像度のコピーもなく,「貧しい画像」はネットに氾濫するただ画像であり,若い世代にとってはそこから創作をはじめるひとつの基盤となっているのである.

しかし,それは低解像度であり,コピーである.だが,それらは全くもって関係なく,画像どんな状態であっても流通さえすればよい.「どんな状態でも」と言うこと自体が間違っているのかもしれない.流通していくものこそが画像なのである.作品として,あるいは作品としてでもなく,また「貧しい画像」という基準でもなく,ただただネット上を流通していき,どこかで誰かの作品の「ソース」となる画像が,Tumblrという「生産システム」をリブログされていくことが求められている.