2013-05-08

18:02

http://to.tumblr.com/post/12823427

もう流れてっちゃったけど。

金井美恵子さんが開口一番に「感動的に幼稚な映画」って評したのが衝撃的で。

2007/9/23

幼稚な欲望 18:14

http://www.yorikofan.com/doremifabooks.html

インタビューはまさに『リュミエール』でなければ読めないような内容の記事で、

「分野を超えて、同時代の作家がようやく遂に出現した」という、金井氏の胸弾む思いの告白から始まり、

「感動的に幼稚な映画で」うれしかった、との感想が述べられます。

「非常に幼稚な欲望から」作品を撮りたくなる、と黒沢監督。

論理的に説明のつくものではなく、そういう絵を見たい、という欲望でしょうか。

その例として、『ドレミファ娘』の当初のアイデアに、恥ずかし実験終了後、平山教授が(恥ずかしさのあまり)小さな白い犬に変身している、

という設定を考えていたことが挙げられています。

また、『神田川~』でも『ドレミファ娘』でも目を惹く、人物がジャンプする行動についても、

この「幼稚な欲望」の産物として述べられていますね。

18:25

no title

終わりの方に出てくるCMNFシーンが注目される。女性ヌードはあっても、男性ヌードは一切ない。

CMNF 18:25

http://ja.wikipedia.org/wiki/CMNF

CMNFは「Clothed Male(s) and Naked Female(s))」(着衣の男性と裸の女性)の略。

服装に格差をつけることで、不自然さ・アンバランスさによるエロティシズムや支配従属関係を明示または暗示する。

「火曜日、記すべきことなし、存在した。」というのは、ジャン・ポール・サルトル「嘔吐」のなかのワンフレーズである。 18:17

http://booklog.kinokuniya.co.jp/shikama/archives/2008/11/post_20.html

シケた日にはこんなふうに日記を書けるようになりたい

「もうひとつの国へ」なんて、きざなタイトルで反吐が出る。帯にはもうひとつのきざ。

「火曜日、記すべきことなし、存在した。」というのは、ジャン・ポール・サルトル「嘔吐」のなかのワンフレーズである。

こう書き出して、次に寺山修司の「過ぎ行く一切は比喩である」を引き、ぼくにとっては今現在も比喩だと言い、古いマンションの一室の鉄パイプ製のベッドで目覚め頭痛薬やチョコや缶コーヒーや煙草を連れて大きなテーブルにゆき、足を投げ出してリビングの換気扇や彼方の高層ビルやキッチンのメモに目をやり、「冴えない朝の時間(ルビ:メニュー)の向こう」につながる「日常という名の迷路」へ「モードを切り替え」、「ぼくの仕方もない一日」の始まりを書いてみせる。きざなパーツの連鎖ながら写真家・森山大道の語り口がきざをぎざぎざにひきさいてしまうのは、写真と暇以外の全てに向かうけだるさが通低しているからだろう。

言葉で人を殴り倒す 18:19

http://www.kadokawa.co.jp/tachiyomi/bunko/?pcd=200409000121

少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだ、と思った。Hungry Youngmen(腹のへった若者たち)は Angry Youngmen(怒れる若者たち)にはなれないと知ったのである。

 そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。

老いた言葉は、言葉の祝祭から遠ざかってゆく 18:21

http://www.kadokawa.co.jp/tachiyomi/bunko/?pcd=200409000121

「去りゆく一切は、比喩にすぎない」とオスワルト・シュペングラーは歴史主義への批判をぶちまけている。たしかに、過ぎ去ってしまった時は比喩、それを支えている言葉もまた実存ではないと言うことができるだろう。

だが、言葉の実存こそ名言の条件なのである。「名言」は、言葉の年齢とは関係ない。それは決して、年老いた言葉を大切にせよということではなく、むしろその逆である。老いた言葉は、言葉の祝祭から遠ざかってゆくが、不逞の新しい言葉には、英雄さながらのような、現実を変革する可能性がはらまれている。

本当はいま必要なのは、名言などではない。

むしろ、平凡な一行、一言である。

だが、私は古いノートをひっぱり出して、私の「名言」を掘り出し、ここに公表することにした。まさに、ブレヒトの「英雄論」をなぞれば「名言のない時代は不幸だが、名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。