http://d.hatena.ne.jp/murrari/20110803/1312345274

少し前(と言っても数十年前)なら、例えば「ウィリアム・S・バロウズ」であったもの、或いはその少し後には「リミックス」や「サンプリング」であったもの、或いはまたローカル的には「盗め!」であったものが、21世紀初頭版のそれは、「ローレンス・レッシグ」や、「リチャード・ストールマン」や、「アーキテクチャ」や、「ネット」や、「二次創作」やらの語で修飾される事になる。いずれにせよ、そうした「現代芸術・主体の否定史」こそが、「現代芸術・コンセプト史」や「現代芸術・文脈史」を、伝統的に形成してきたと言えるだろう。

「現代芸術」は、「他から取ってくる事」、即ち「テイク」は得意だ。「現代芸術」は、そうやって「テイク」し続けて生き延びてきたとも言える。それもまた伝統であり、「カオス*ラウンジ」も、その伝統に則っている。但し「他に与えていく事」、即ち「ギブ」は不得意であるか、そもそも「他者」が「テイク」したくなる様なものを、結果的に差し出せなかったという側面はある。平たく言えば、「現代芸術」は、「他者」が「テイク」したくなる「魅力」に、圧倒的に欠けているのだ。「現代アート」が「オタク」から「テイク」し続ける事はあり得ても、「オタク」が「現代アート」を「テイク」していくというケースは、ゼロか極めて稀だろう。

( via http://d.hatena.ne.jp/n-291/20110803#p6 )