2013-06-07

物知りになってしまうとだいたい物が見られなくなる 08:50

常識、反常識 10:32

http://twitter.com/dannna_o/status/342781349943463938

しかし初見のイメージは先入観ではなく、多くの場合は先入観というのは評判や情報で形作られ、ゆえにヒトは情報に対して敗北し続けているのだ

常識、反常識。

それに出会う前に、すでにそれを知っているものとして接している。

タンブラーは奇跡で創出されたところがあると思う 10:00

http://toukubo.com/post/51197604949/exclamation-tumblr-yahoo

このタイミングで、このポストをタンブラーに投入したのは素晴らしいことだったと思うけど、タンブラーがそうであるほどは素晴らしくはなかったと思う。そして彼らはタンブラーを変えませんっていったけど、会社取得までの変化がもたらされるというのに、僕らが期待していることは、彼らが言うように、それと、僕らがとりあえず恐れていたことが免れたってことで求めてたことである気になってるところの、「変えませんから安心してください」だっただろうか。というのが、僕の疑問です。

タンブラーをここ10年のインターネットや人間の革新的進歩の一つだと思っていて、思ってい過ぎてて、もはやチェンジ・エージェントなどのクリティカルなしくみを内蔵した自己組織的な社会生命体みたいなレベルになってると思っている。リブログの発明や、autopagerizeや操作性、それとquoteのためのUIの発明、それらが並行して、また同じところから思いつかれたように見えるところ、そしてpost,reblog,quote,改変quote、そしてメディア種を等しい扱いにしているところから、ちょうどニューロンがこれらをすべて「ネットワーク」で処理していて、あるニューロンがあるニューロンをリブログしてたりするのがquoteであったり、外界の一部をquoteしてたりするがこれらが同じ仕組で処理されてる、というような、普遍性を宿して、リブロツリーという発火系を広げていく、インターネットや社会動態の自己維持・改変能力すら持つ実装としてみなしてすらいた。

そろそろはっきりとしてきたことだけど、会社購入というのは一種のリミックスである。本当はそこには創造的なリミックスが必要で、つまり変化が必要そうである。あるいは「リブログ」やデータAPIごしにできる変化以上の創造的変化がなされる必要があるような気がする。どうやって彼らが、コネクティング・ザ・ドッツをするのか。ということについての説明は、僕には十分でないように思えた。今回の購入で明確に失われることがひとつだけあって、それは別の会社売却の可能性じゃないのかな。

タンブラーは奇跡で創出されたところがあると思う。完成度が高すぎる。ほとんどグーグルサーチに匹敵する、核となれる刷新性と普遍性がある。googleが他のサービスを統合していく流れの中心点にはサーチとアドセンスがあったと思うけど、それに近い情報社会学的価値があった。人工知能ソーシャル・ネットワークの結合は次の時代の巨大な実験で、グーグルなんかも膨大な金をかけてそれをやってるけど、タンブラーは答えの一つで、このサービスのポテンシャルはそこにあると思う。おそらくヤフーが本当に若返るということだけ考えるなら1100億円の1/10のお金でyコンの会社100個買うとかでよかったと思う。タンブラーを買うってことするなら、逆にtumblrにyahooを全部書き換えてもらうくらいのことになると良いと思う。

タンブラーがあと3年のうちに真に適切な換金の能力をえて、それがナノペイメントなど、社会動態の次に根ざしたものになったらweb3.0の中心を担うサービスになると思うけど、その頃には「クリエイティブのためのプレイグラウンド」とかそういうしょぼくれたサービスではなくて、進化するインターネット実装そのものの一つの完成形となったりしてほしい。

(推敲してないしねてない。)

ブログに本質があるわけでもない。タンブルログ的な方法に本質があるわけでもない。バイナリなどにメディアを並べたことだけに本質があったわけでもない。share on tumblrが画期的だったことが本質だっただけでもない。quoteにパーマリンク与えたことだけが本質だったわけでもない。quoteの強調された文字列サイズがポストサイズや画像と匹敵するバランスになるようデフォルト設定されたっていう革新も、それだけで本質だったわけでもない。 10:01

http://toukubo.com/post/51198746794

タンブラー買収されてタンブラーのこと考えてやっぱりふるっさ−のことばかり考えた。眠い。

「人、現実(普通の人の言葉だとオフラインとか)、脳、デジタルコンテンツ、メディア、テキスト、オリジナル、完コピリブログ、改変可能なりブログ、quote」などを等価に扱えるところに収束したことがヤバイっぽい。ツールセットが。

脳とかインターネットとかがやってる、ほぼ一つの汎用的なしくみで、ベストエフォートとか内蔵してかなり良い感じにどれもを捌ける仕組みが結果的にいま実現されてる。眠い。

たんぶるログを誰かがつくってそれを実装した後にリブログやフォローなどを等価した、ということで奇跡的にその形になったんだろうけど、それにしても。

あえてひとつ本質を示すならばこれだと思う。リブログに本質があるわけでもない。タブブルログ的な方法に本質があるわけでもない。バイナリなどにメディアを並べたことだけに本質があったわけでもない。share on tumblrが画期的だったことが本質だっただけでもない。quoteにパーマリンク与えたことだけが本質だったわけでもない。quoteの強調された文字列サイズがポストサイズや画像と匹敵するバランスになるようデフォルト設定されたっていう革新も、それだけで本質だったわけでもない。全部凄い新しいことやりまくったね、が革新だったわけでもない。なんかまるで時代が要請するかのように脳的なありようになった。先に例があってその後に仕組みになっていったのか、仕組みと呼び合ったのかしらんが、そんなようになった。

寝よう。

「VUのCDの売上は世界中で50万枚程度にすぎないが、聞いた全員がバンドをはじめた」 10:17

http://toukubo.com/post/304186569/twitter-tumblr

ちなみにtwitterの中の人たちとか、ヘビーにつかってる人のtumblrについての理解度はものすごく低く、僕がtwittertumblrを引き合いにだす時点で、なにあんなんとくらべちゃってんの、と奇妙な空気が少し流れ、クリエイティブにネットを次の時代に進めたという点では、tumblrの 方が上をいってる。といった感想をのべると、ちょっと危険な空気が流れる。twitterは魅力的なプラットフォームだが、tumblrは天才的なホームレスだ、とかいって140文字に収まるような惑わしの一文で締めたりする。

ちなみにこの二つの比較を僕はtwitterビートルズ的、tumblrはベルベットアンダーグラウンド的だと表現して、ルーリードの回顧的なインタビューを紹介することが多い。ルーリード曰く

「VUのCDの売上は世界中で50万枚程度にすぎないが、聞いた全員がバンドをはじめた」

だそうだ。かっこいい。50万枚って数字はちょっと正確なとこ覚えてない。もっとすくないかも。で、この比喩を出しても、ベルベッツをしらない人はいっぱいいて、通じやしねえ、っていうのもまたオツなところ。

画像―文字テクスト―テクノ画像 10:35

http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/c17.html

だが、フルッサーがこれらの思想家達と異なっているのは、何よりもその理論的スケールの大きさであろう。文明を組織する支配的文化コード(記号体系)を「画像―文字テクスト―テクノ画像」への数千年単位での推移として捉え、前近代、近代、ポスト近代を「道具―機械―装置」といった概念群で明快に説明する彼のメディア哲学は、人間のコミュニケーションの根底を見据えた、眼の覚めるような説得力をもっている。

「こんなの見つけたよ」 12:45

http://web.archive.org/web/20111014194241/http://proto.jp/2008/01/26/tumblr-talk/ via suyhnc

まず、tumblrに触れて分かるのは、その圧倒的な情報量の多さ。

圧倒的です。

このページを見ている方は、チャットや掲示板を見たり書いたりしたことがあるでしょう。tumblrの感覚を すごく大雑把に言うと、そのテキストが全て画像になったようなものです。もっと分かりやす言うと、ニコニコ動画で流れてくるテキスト。アレが全て画像になったと考えてください。

そして、正確にはその画像は全コンテンツです。PCで表示できる全コンテンツ。画像、音楽、動画、そしてテキスト。全て。これらのコンテンツ自体が『言葉』となります。

基本tumblrをするときに言葉は要りません。

なぜなら伝えたいことは一つだからです。

『こんなの見つけたよ!』

ただこれだけ。

そしてそれに応じて

『いいね。』

と返すとソレがReblogになります。

それを見た他の人がまた『いいね』といって会話がつながっていきます。コレを延々とくりかえします。

それがtumblr

インテリジェンスの暴力 13:30

no title

ところで実際のところ、インテリジェンスなるもの大半は公開情報を検索可能な形に編集し意味のあるデータを作成する行為で

よってこれはインテリジェンスの暴力とは言えるかもしれない。