この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風のように感ぜられた

始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい「おくすり」であったらしい。それを飲みやすくするために医者はこれに少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった。粉にしたコーヒーをさらし木綿(もめん)の小袋にほんのひとつまみちょっぴり入れたのを熱い牛乳の中に浸して、漢方の風邪薬(かぜぐすり)のように振り出し絞り出すのである。

寺田寅彦 コーヒー哲学序説

とにかくこの生まれて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎(いなか)育ちの少年の私を心酔させてしまった。すべてのエキゾティックなものに憧憬(どうけい)をもっていた子供心に、この南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風(くんぷう)のように感ぜられたもののようである。

寺田寅彦 コーヒー哲学序説