弱さを武器に、

これが「最強」であったのは、彼らのいわゆる「身体実感」がフェイクだったからである。

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「オレの生身」それ自体がイデオロギーな構築物だった

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ほんとうの生身はアモルファスで、密度に濃淡があり、多孔的で、へなへなしていて、そこいらじゅうに「取りつく島」がある。

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その生身の脆弱性イデオロギーの暴走を抑止している。

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彼らは「プロレタリアの苦しみ」の代わりに「普通の人間である、オレの利己心と欲望」をベースに採用した。

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コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている。

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そういう「リアルな実感」の上に「やられたらやり返せ」というショーヴィスムや市場原理主義や弱肉強食の能力主義の言説が載っている。

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私たちの言葉と彼らの言葉をわかつのは、そのような下品な言葉に生身の人間は長くは耐えられないという 、私たちの側の「弱さ」だけである。

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弱さは武器にはならない。

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けれども、最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだ

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