でも人間は文字をつくってしまった。つくってしまってからは,坂道を転げるように止まらなくて展開している。進化って,多分そういうものなんじゃないでしょうか。

そのうちに気がついたのは「文字は人間にとって非常に新しい時代のものなのだ」ということでした。

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ヒトの誕生がいつかという議論には諸説ありますが,10万年前だったと仮定しても,文字が生まれたのはたかだか5千年前です。それ以前もおそらく言葉は話されていたでしょうし,人間として完成した脳を持っていたはずです。なのに文字は存在しなかった。それが,何世代かが過ぎて文字というものが出てきたとたん,それらはものすごい速さで各地でつくられ,広まっていったわけです。

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私は,「文化とはコミュニケーションである」とよく言うのですが,それは,同時代に生きる人との間のコミュニケーションであると同時に,世代を介するコミュニケーションという形で伝わっていくものなのです。

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これは仮説ですが,文字の機能というのはあくまでも,話し言葉を記録することです。すなわち,どういう文字を使うかは,話し言葉で決まるのではないかと思っています。

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日本人が仮名文字をつくることができたのは,日本語の音コードが単純でシラブルの数が少ないからです。たとえば,英語ではシラブルが200くらいあるので,その1個1個を全部違う記号にしていたら大変な数を覚えなければならない。

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漢字は「へん」,「つくり」,「かまえ」といった部首のカテゴリーをもっています。「うかんむり」なら「うかんむり」の中にくくってしまえば,そこではせいぜい20個程度を覚えればすむ。あれは非常によくできた構造で,中国人の発明能力の賜物です。私たちはそのご相伴にあずかっているわけです。

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手を動かして文字を書くことが減ったことは残念ですね。それによって,墨で書かれたものを読み解く能力が減ってしまうのではないかと思うんです。さらさらっと書かれた掛け軸の文字がなかなか読めないときには,手で書く真似(空書)をしますよね。あれはやはり自分のなかに,習字で習った筆順の運動記憶が残っているということです。

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書き順があるから「あの文字だ」とわかるんです

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私は文化の基本は世代間のコミュニケーションだと考えていますが,

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シーラカンスにはたぶんそういう欲望がない。だから,何億年もまったく同じ形をしていても,満足して生きていられる。私たちはそれでは満足できないんですよ。世代を経て「自分たちは変わらなければいけない」と思う,その脳の機構がきっと「進化」というものなのではないかと思います。

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その基本にあるのが,世代間で何かを伝えていこうという生物学的衝動のようなもので,脳がその衝動を支えているのだと思います。そこから言葉が生まれ,文字が生まれた。

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でも人間は文字をつくってしまった。つくってしまってからは,坂道を転げるように止まらなくて展開している。進化って,多分そういうものなんじゃないでしょうか。

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